「思考が“モノ”になっていくことへの違和感」
— AIが“考えてくれる”時代に、私たちはどう自分を保つか?
こんにちは
前回の記事では、
「言葉にならない感情」や「曖昧な問い」を、
すぐにAIに渡してしまうことへの違和感について書きました。
今回はそこからもう一歩踏み込んで、
**AIが“考えてくれる”この時代に、
私たちはどんなふうに思考と向き合えばいいのか?**を一緒に考えてみたいと思います。
◆ AIに思考を委ねると、プロセスが消える
何か悩みがあるとき、
「どう考えていいか分からない」と感じるのは当然です。
そんなときAIに相談すれば、
理屈の通った、整った答えを即座に返してくれる。
けれどここで、ふと疑問が浮かびます。
自分は、本当に“考えた”んだろうか?
それとも、“考えたような気がした”だけなんだろうか?
AIは「考える」という行為をパッケージ化された“機能”として提供してくれる。
悩みも問いも、ある種の“問題”として処理されてしまう。
そうして、思考のプロセスは「モノ」になっていく。
まるで部品のように、形ある何かとして手渡される。
◆ 思考がモノになると、自分から少しずつ離れていく
本来、「考える」ってもっと面倒くさいもののはずです。
堂々巡りになったり、
夜眠れなくなったり、
同じことをノートに何回も書き殴ったり。
でも、その泥臭いプロセスの中にしか、自分なりの“納得”や“気づき”って生まれない気がするんです。
AIはそこをすっ飛ばして、ショートカットをくれる。
でもそれって、自分自身の“理解の手触り”を失うということでもあります。
つまり、考えることを外に任せ続けると、
“自分が自分である感覚”が少しずつ曖昧になっていくのです。
◆ 「思考を引き受ける」って、結構しんどい。でも、だからこそ意味がある
思考って、言い換えれば「問いを自分で引き受けること」だと思います。
問いの形が決まってなくてもいい。
答えが出なくてもいい。
でも、「この問いは、しばらく私の中にいてもらおう」って決める。
それが、自分にとっての“真剣な問い”なのかもしれません。
◆ 次回予告:「間」を持つ力——AI時代にこそ必要な“思考の余白”
では、どうすれば私たちはAIと付き合いながらも、
自分の思考を保っていけるのでしょうか?
次回はそのヒントとして、
「間(ま)」を持つことの大切さについて書いてみたいと思います。
時間をかけて考える。
あえて答えを急がない。
“わからないまま”でいる勇気を持つ。
そんな「余白」が、AIにはないけれど、
人間には確かにあるものだと思うのです。
おわりに:考えることは、自分を取り戻すこと
思考って、
“正しさ”のためにあるのではなく、
“自分とのつながり”のためにあるのかもしれません。
AIに頼れる時代だからこそ、
そのことを、忘れないでいたいと思います。
次回もどうぞお楽しみに。