MindSet~視座~

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なぜ社会人になると「輝き」を失うのか?──余白と内なる自己の話

こんにちは。
最近ふと思ったことがあります。

大学生の頃、あんなにキラキラして見えたあの人が、社会人になると、急に輝きを失ってしまったように見えるのはなぜだろう?
本人が怠けているわけでも、能力が落ちたわけでもないのに。

この違和感のようなものに、ずっと引っかかっていました。


「余白」のある生活が、人を輝かせていた?

大学時代を思い返してみると、「余白」がたくさんあったように思います。
授業と授業のあいだにぼーっとしたり、友達と意味のない雑談をしたり、本屋でなんとなく立ち読みしてみたり。そうした「何者でもない時間」が、人を自由にし、豊かにしていたのかもしれません。

そこでは、「やらなければいけないこと」よりも、「なんとなく惹かれること」が優先されていました。
そういう内側から湧き出る活動には、自分らしさや熱量が自然と宿る。
だから、キラキラして見えたのかもしれません。


社会に出ると、「外的自己」に従うようになる

ところが社会人になると、その「余白」がどんどん奪われていきます。

・時間は予定で埋まり、
・行動には「意味」や「成果」が求められ、
・考えることさえ「正解」に向けて効率化されていく。

こうして、私たちは次第に「内なる声」ではなく、「周囲にどう見られるか」「上司にどう評価されるか」という“外側”の軸で動くようになります。

そうした外的自己のモードでは、たしかに「機能」はします。
でも、輝きは、宿りにくい


哲学的に言うならば──「頽落」と「問い」の喪失

この現象は、哲学的にも興味深いテーマです。

たとえばハイデガーは、「頽落(たいらく)」という言葉で、人間が本来的な自分を見失い、「世間の流れ」に呑み込まれて生きることの危うさを指摘しました。
つまり、自分のあり方を他人や社会に預けてしまうということです

会社という環境は、まさにこの「頽落」を引き起こしやすい構造を持っています。
「自分の内から出た問い」ではなく、「与えられた課題」ばかりを解こうとする日々。

結果として、「考えること=問題解決」になり、「問いを持つこと=非効率」になってしまう。


本当に輝くのは、「内から出た問い」に向かうとき

あるときふと思いました。
内なる自分から出たものは輝くが、外的自己のやることでは輝けないのではないか。

仕事が忙しいとか、責任が重いとか、そういう問題ではなく、
「自分の中から生まれた問い」とともに生きているかどうか。
それが、輝きを取り戻す鍵なのではないかと。


余白を、少しでも取り戻すために

もちろん、社会に出た以上、「役割」や「成果」から逃げることはできません。
でも、ほんの少しでもいいから、「余白」を生活の中に取り戻せたらと思うのです。

・ただぼーっと歩く時間をつくる
スマホを見ずに、何もしない瞬間を大事にする
・意味のない疑問や問いを持ってみる

そういう時間のなかで、自分だけの「問い」や「ひらめき」が顔を出すかもしれません。

それはすぐに役に立たないかもしれない。
でも、たぶんそれこそが、あなた自身の輝きなんじゃないかと思うのです。


読んでくださって、ありがとうございました。

もしあなたにも、「かつての輝き」や「忘れていた問い」があれば、ぜひコメントで聞かせてください。