私たちはどこでボタンを掛け違えたのか。
フェミニズムやジェンダー平等という言葉を日常的に耳にするようになりました。
でも、その言葉が響くたびに、どこか「モヤッ」とした違和感や、言いようのない疲れを感じることはありませんか?
特に、仕事に家庭に責任が重くなる30代・40代にとって、今の「平等」はどこか無理がある気がしてならない――。
今回は、フェミニズムの歩みを振り返りながら、今私たちが直面している**「働き方の平等の、ちょっと間違った方向性」**について考えてみたいと思います。

1. フェミニズムが変えてきたもの:歴史の光と影
フェミニズムの歴史は、大きく3つの波に分けられます。
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第1波(参政権): 「女性も人間として、一票を投じる権利を」
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第2波(解放): 「家庭という密室に閉じ込められず、社会へ」
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第3波〜現在(多様性): 「一人ひとりの生き方、個性を尊重しよう」
これらは間違いなく、私たちの選択肢を広げてくれました。しかし、日本という土壌に浸透していく過程で、ある大きな「落とし穴」が生じてしまったように思うのです。
2. 日本での浸透と、生じ始めた「歪み」
日本でも70年代のウーマン・リブを経て、2010年代以降のSNSの普及により、不条理への声が可視化されるようになりました。
しかし、ここで一つの大きな問題が浮上します。それは、**「社会の仕組み(OS)は昭和の男性モデルのまま、女性という新しいソフトを無理やりインストールした」**ことです。
3. 【本題】「働き方の平等」という名の、過酷な同化
今、私たちが目指している「平等」は、少し間違った方向に向かっていないでしょうか。
丁寧に見つめ直すと、3つの歪みが見えてきます。
① 「24時間戦う男性モデル」への強制参加
今の働き方の平等の多くは、「家事や育児を誰かに丸投げして、会社に全てを捧げる」という、かつての男性正社員の働き方を「標準」としています。
女性がその標準に合わせることを「平等」と呼ぶのは、果たして正解なのでしょうか。それは単なる「過酷な労働環境への同化」ではないでしょうか。
② 「1階」を残したまま「2階」を増築した地獄
かつての分業制を「1階(家事・育児)」「2階(仕事)」と例えるなら、今の平等は**「女性が1階を維持したまま、2階でも男性と同じ成果を出せ」**と言っているようなものです。
土台となる「家事・育児というケア」を社会全体でどう担うかという議論を置き去りにしたまま、活躍の場だけを広げた結果、女性側の負担だけが純増してしまっています。
③ 「ケア」の価値が置き去りにされている
「バリバリ働くこと」だけが価値とされ、誰かをケアしたり、生活を整えたりすることの価値が相対的に低く見積もられたままです。これでは、男性が家庭に入ろうとするインセンティブも生まれず、結局は「どちらがより多く稼ぎ、長く働けるか」という一元的な物差しでの争いになってしまいます。
4. 私たちが本当に欲しかったものは何か
私たちが欲しかったのは、**「男性と同じように、身を削って働く権利」**だったのでしょうか。
おそらく、本当に必要だったのは、
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誰がケアを担ってもキャリアが断絶されない仕組み
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「24時間戦える人」以外も排除されない評価軸
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性別に関係なく、生活と仕事を地続きで捉えられる社会
だったはずです。
今の「働き方の平等」は、まだ発展途上の、少しバランスを欠いた状態にあるのかもしれません。
おわりに
フェミニズムが目指した地平は、本来もっと自由で、穏やかなものだったはず。
「もっと頑張らなきゃ」と自分を追い込む前に、今私たちが立っている「平等の形」そのものを疑ってみること。
30代・40代の私たちから、「そんなに戦わなくても、普通に暮らしていける平等」について、もっと声をあげていってもいいのではないでしょうか。
皆さんは、今の「働き方の平等」にどんな違和感を持っていますか?
ぜひ、ブックマークやコメントで皆さんの実感を教えてください。

