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お金のために人を殺すということ:マルクスが問いかける「命の価値」

衝撃的な問いかけから見えてくるもの

 

「お金のために人を殺すというのは、資本主義があるからではないのか?」

この衝撃的な問いかけから始まった議論は、私たちが当たり前のように受け入れている社会の仕組み、そしてその中で忘れられがちな「命の価値」について深く考えさせられるものでした。多くの人にとって、お金のために命を奪うという行為は、極めて非倫理的で、強い嫌悪感を抱かせるものです。しかし、なぜ私たちはそう感じるのでしょうか?そして、この感覚の根源には何があるのでしょうか?🧐


 

命が「商品」になるという感覚

 

「人の命が貨幣に換算され、その価値と自分が手に入れられる貨幣価値を比較した時に、人の命を軽んじている」ように思います。この感覚は、まさに資本主義を鋭く批判した思想家、カール・マルクスの考え方と深く重なり合います。

マルクスは、資本主義社会において、あらゆるものが**「商品」として扱われるようになると指摘しました。そして、本来は商品ではないはずの人間の労働力**までもが、市場で売買される「労働力商品」となる、と論じました。

私たちは生きていくために、自分の時間や能力、精神、肉体といった「労働力」を、賃金と引き換えに企業に売ります。この時、私たちは、パンや服と同じように、経済的な価値を持つ「物」として扱われ始めます。本来、自己実現や創造的な活動であるはずの労働が、単に貨幣を得るための手段と化してしまうのです。


 

「物象化」という名の価値転倒

 

このプロセスが極端に進むと、マルクスが言うところの**「物象化(Reification)」**が起こります。物象化とは、人間が作り出したものや、人間関係そのものが、あたかもそれ自体に独立した生命があるかのように振る舞い、人間を支配するようになる現象のことです。

「人の命が貨幣に換算される」という感覚は、まさにこの物象化の究極の現れと言えるでしょう。本来、かけがえのないはずの命が、保険金や賠償金、あるいはプロジェクトのコスト計算において数値化され、貨幣という普遍的な尺度で測られうる「物」として扱われる。

そして、この「物象化」された命の価値が、私たちが手にする貨幣の額や、企業が追求する利益と対比されたとき、「命が軽んじられている」という感覚が生まれるのです。それは、お金や資本が、本来手段であるはずなのに、あたかも目的であるかのように振る舞い、人間という存在そのものをその道具にしてしまうという、価値の転倒に他なりません。


 

現代社会に潜む「命の軽視」

 

マルクスが生きた時代から時を経て、現代社会はさらに複雑な資本主義の形態をとっていますが、彼が指摘した問題は形を変えながら今も存在しています。

  • 企業のリストラ: 企業が利益を追求し、人件費削減のために社員を解雇する際、社員一人ひとりの人生や生活は、帳簿上の「コスト」という数字として扱われます。

  • 過労死や労働災害: 生産性や効率性を優先した結果、労働者の安全が軽視され、命が失われる事故が起こる。失われた命に対して支払われる賠償金は、命の「代償」として貨幣に換算されたものであり、本来の命の価値とは大きくかけ離れています。

  • 医療の格差: 命に関わる医療サービスが、経済的な負担能力によって受けられるかどうかが左右される。お金がないために十分な治療を受けられない人がいる場合、その人の命は、経済的価値によって軽んじられていると捉えることができます。

これらは全て、人間の命や生活といった本来かけがえのないものが、経済的な利益や効率性の名のもとに、あたかも交換可能な「物」のように扱われ、その尊厳が軽んじられていると解釈できるでしょう。


 

問い続けることの重要性

 

「お金のために人を殺すのは資本主義に毒されている」というあなたの感覚は、単なる個人の感情ではなく、資本主義社会が内包する倫理的な矛盾を鋭く捉えたものです。

マルクスの思想は、私たちに、人間が貨幣や資本の奴隷になるのではなく、人間こそが社会や経済の主人であるべきだという、根本的な問いを投げかけています。

現代社会に生きる私たちにとって、この「命の価値」を問い続けることは、より人間らしい社会を築くために不可欠な視点ではないでしょうか。

 

 

マルクス主義