最近、気がついたらAIにいろんなことを「聞いて」ばかりいる。レシピ、文章のアイデア、ちょっとした悩みのヒント。便利だし、速いし、それなりに“答え”っぽいものをくれる。
でも、ふとこんなことを思った。
「このまま何でも外に聞いていたら、オレ、自分の考えって持ってたっけ?」
頭じゃなくて、外部で“思考”してる?
僕たちは、昔から何かを考えるとき「自分の中」でぐるぐると考えを巡らせていた。迷ったり、悩んだり、寝る前にうだうだと考えすぎて眠れなかったり…。
でも今は違う。悩む前にググる。ググる前にChatGPTに聞く。
それって便利だけど、どこか自分の“思考の筋トレ”を他人に任せてしまっている感覚がある。
たとえるなら、「腹が減った」→「すぐ出前」みたいなもので、料理する過程も、味付けも、自分の好みも、どんどん自分から離れていく。
禅の世界にあった「答えを探しすぎるな」という教え
ここで思い出すのが、禅の言葉。
「不立文字(ふりゅうもんじ)」
文字や言葉にとらわれず、体験を通して真理を知れ。
とか、
「看脚下(かんきゃっか)」
自分の足元をよく見よ。今ここに、答えはある。
禅では、「すぐにわかる答え」よりも、「わからないことと一緒にいられる強さ」を大事にする。
すぐに“外”にある答えを取りに行くより、“内”にある問いと向き合うこと。
この感覚、AI全盛の今だからこそ、すごく大事なんじゃないかと思う。
思考の「間」を持てていますか?
AIがいると、考えなくてもある程度の答えが出る。だけどその分、自分で考える“間”がなくなる。
この「間」って、実はすごく人間っぽいものなんだと思う。
ぼーっとする時間。
考えても考えても、決まらない夜。
散歩しながら、ふと答えが降ってくる感覚。
これら全部、AIにはない。だけど、僕たち人間にはある。
そしてそれこそが、「自分自身とつながっている」時間だ。
AIと共存する。でも、依存しすぎない
AIは使える。でも、思考の「コア」は手放しちゃいけない。
禅のように、あえて不便で、不明確で、曖昧なものと向き合う。
「わからない自分」と一緒にいられる強さを持つ。
そうすれば、AIの時代でも、ちゃんと“自分の声”で生きられる。
最後に:AIは「ツール」、あなたは「人間」
道具に頼ることは悪くない。
でも、自分の“問い”まで預けてしまうと、自分自身の輪郭があやふやになる。
禅が教えてくれるのは、「立ち止まって、今ここを見る」こと。
一度スマホを置いて、今日の夕暮れを眺めてみよう。
きっとそこにも、AIには出せない“答えのない美しさ”がある。
あなたは、どれだけ「自分の問い」を持っていますか?